四国八十八ヶ所霊場第51番札所 熊野山 虚空蔵院 石手寺
宗 派 真言宗豊山派
開 基 行基菩薩
創 建 天平元年(729)
本 尊 薬師如来
真 言 おん ころころ せんだり
まとうぎ そわか
住 所 松山市石手2丁目9-21
石手寺由来
日本最古といわれる道後温泉の近く。参道が回廊形式となり《石手寺名物 やきもち》の店舗などが並ぶ。境内は、巡礼者や地元のお大師さん信者や観光客が多い霊場である。
そのもう一つの要因は、境内ほとんどの堂塔が国宝、国の重要文化財に指定されている壮観さで、それに寺宝を常時展示している宝物館を備えており、四国霊場では随一ともいえる文化財の寺院である。法隆寺文様の瓦が出土し、法隆寺系統の荘園に立脚して飛鳥時代670年頃に最初の堂宇が建立されたという。
天武天皇の神亀5年(728)伊予の太守越智玉純公が霊夢に二十五菩薩の降臨を見て、この地を淨域として熊野十二社権現を祀り勅願所と定める。当初は《安養寺》と号されていたが、寛平4年(892)に衛門三郎伝説により寺名を《石手寺》に改号。
平安時代には七堂伽羅を備え、室町期には隆盛を極め寺域東西数十丁伽羅六十六坊を有したが、永禄九年(1566)長曾我部氏の兵火のために十二間四面重層の金堂を始め寺域の金堂はじめ寺域の大半を焼失。
現在の境内は曼荼羅形式の伽羅配置で、多くの堂宇を巡ることは八十八ヶ所巡拝に似て親しまれている。
(《へんろ》第443号より抜粋)
衛門三郎伝説
数里南の荏原の里に、《衛門三郎》という長者がいた。
ある日、門前に一人の薄汚れた僧が行き場もなく途方に暮れて、
『どこでもよいから一晩泊めてくれませんか』
と懇願した。衛門三郎は開墾に夢中で聞こえない。僧がしつこく頼むので彼は
『わしは忙しい、仕事の邪魔だ、汚いものめ、働かぬからだ』
と突き飛ばした時、僧が持っていた托鉢の鉢がおちて八つに割れた。
実はこの僧《弘法大師》であったが落胆して去り、その後衛門三郎の八人の子が死んでしまう。
衛門三郎は最愛の子らを亡くし何も手につかなくなる。働き者であった彼を村人はいつしか、
「強欲非道の怠け者」と呼ぶようになった。家も荒れ果て、ついに彼は家を捨て、身を忘れて(あの僧に逢いたい)と出奔する。四国を廻ること二十一回、いつしか衛門三郎の姿はあの薄汚い僧に似ていた。彼は、ある所では悉く宿を断られ、ときには優しく迎えられた。
(あぁ、人の心を知りぬれば、さはあらじを)
遂に阿波の国十二番焼山寺の麓で病に倒れ息も絶え絶えになった時、弘法大師が枕元に現れ、
『よくぞ修業し改心した。望みがあればかなえよう』
と言う。すると衛門三郎が、
『生まれ変われるものならば、領主に生まれ人々を助けたい。今度こそお泊めしたい』
と言うと、一寸八分の石に【衛門三郎】と刻み、衛門三郎に授けた。石を受け取ると衛門三郎は安心して息を引き取った。
それより幾許の年月を経て、かの地の豪族《河野息利》に男子が生まれたが右手を握ったまま開かない。《安養寺》で祈願すると右手が開き中から【衛門三郎】と書かれた石が出てきた。
そこでこの石を当山に納め、寺号を安養寺から《石手寺》に改めた。
現在、【衛門三郎玉の石】は寺宝として宝物館に安置してある。
(仏教入門1・2・本来の仏教・ブッダの真実・遍路作法と最古の経典解説参照)